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『月刊マクロビオティック』3月号おすすめ記事

 消化器がんの専門医として最先端医療の現場で長年活躍され、現在では全人的医療という概念のもと新しい医療のカタチを追求する、本誌でもおなじみの島村トータルケアクリニック院長の島村善行先生。
 島村先生がマクロビオティックを強く意識するようになるきっかけになったのは、勉強会仲間の知り合いであった小島氏から相談を持ちかけられたことによる。島村先生は心配して、早期の手術を勧めた。
 小島氏は1998年に都内の病院で肺がんと診断された後、現代医療のがん治療法に疑問を感じ、手探りの中、マクロビオティックでがんを克服した貴重な経験をもっていらっしゃいます。この度、小島氏より体験記をご寄稿をいただくこととなりました。

 

はじめに

 私の肺がんをマクロビオティックという食養法で克服した話を書いて欲しいという依頼を受けた。15年半以上経ったが、今も私は元気に仕事をしている。その間、肺がんの医学的治療は一切受けていない。
 しかし、最初の7年間は年1回、CTスキャンによる検査を受け続けた。その後8年間は、検査さえ受けていない。役所から健康診断の通知が来る年齢になったが、全てゴミ箱に捨てている。
 かつて、手記をまとめたり、人前でスピーチしたりと、経験を発表したことはある。しかし、過去5年以上は書いていない。今の心境を含めて、自分の到達した気分をまとめる機会としてみたい。

診断の頃

 1997年11月、CTスキャン検査で上肺部外側に直径3・2pの正常ではない影を認めた。都心の著名な病院施設であった。主治医はがんであることを断言した。半信半疑の私は、医師の治療の勧めに躊躇した。第2期のステージにあり、手術によって除去できるのでできるだけ早く行うべきだ、とのことであった。
 自覚症状はなかった。家内の勧め
もあり、確定診断を得るべく、同じ病院のレントゲン科による「CTガイド下針生検」を受けることにした。翌年1月に検査入院を予約した。2ヵ月以上もの間、そもそもCTスキャンによる診断をそのまま受け容れるべきかを躊躇したため、検査が遅くなった。
 2人の医師の一人(O氏)は断言したが、他の大学病院の医師(T氏)は断言はしなかった。しかし、その可能性は高いという趣旨の評価であり、2人の見解は大筋一致していた。
 CTスキャンによる画像診断はこのように「推定」であるに過ぎない。私自身が納得しないまま放置するかと言うと、そうはいかないだろうと考えた。ならば、一旦推定黒判定が出た以上、確定診断を求めざるを得ないかと考え、妻の意見を受け容れることにした。
 検査の結果は、確定黒であった。50歳の時であった。右胸上部に直接針を手で突き刺し、CT撮影した位置をリアルタイムで確認しながら、針の先に引っかけた細胞組織を引き抜くという乱暴な方法であった。主治医のO氏は同じ病院での手術を勧めてくれ、予約の日程まで決めた。その後、手術用の自己血の用意、仕事の段取りなどを準備しつつ、何となく医師の指示に疑念を感じながらの日々であった。
 日本医大の丸山千里博士の丸山ワクチンを自ら調べ、ワクチン注射を受けてみることにした。O医師は、「これは昔から随分やりましたが、あまり効果はなかったのですよね。でも注射はしてあげますよ」と言って即実行してくれた。週3日通い射ち続けた。
 予定した手術日程を延期し、不安の中、仕事を続けながらワクチン接種を続けた。少し身体が熱っぽくなる感じはあった。今思うと、丸山ワクチンは結核菌を身体に入れ、患者自身の菌に抵抗する免疫力を利用してがん自体を抑え込む方法である。熱くなることは、免疫力が賦活化していた証しょうさ左かも知れない。2クールが終った時点でCTスキャンによる検査を受けたが、3・2pの肺がん組織は縮小してはいなかった。

医師との会話

 肺がん患者の医学的治療(現在も行われている手術、抗がん剤、放射線療法のこと)の場合の5年生存率(治療後5年以上生きている患者)は、30〜40%であると言われたように記憶する。つまり、手術をしても生きられる可能性は3〜4割ということである。
 肺の手術が心臓や呼吸器に近いことから、生命に危険を与える手術である、という危機意識は持っていた。がんとは別に手術自体がそれ単独でも、生命への危険を持つものであると感じた。なぜそう感じたかには理由はなく、恐らく、私自身の動物的本能がそのような考え方を引き出したのであろう。「がんはなぜなるのですか?」「それは分っていないのです」「では、手術しただけでは再発しない保証はないのですね?」「そうですが、経過観察を続けていくことになります。肺がんの組織はなくなる訳ですから、直ちに危険な現在の状態は除去できます」「がんの原因が分らないとすると、手術でがん細胞を除去することが、なぜ治癒したことになるのですか?」「……」。手術を勧めながらも丸山ワクチン注射をしてくれるO医師とこんな会話を交した。
 その当時感じたことは、手術と言っても、医師はその方法論に確信を持っている訳ではない。唯、それ以外に勧められる方法はない。それで患者が死亡しても、医学界で認められた方法である以上、医師の責任を問われることはない。要するに、彼はテキストブックを読んで答えているのであって、治療方法に医師個人として何らの確信を持っているのではないのだな、と感じつつ、帰途に着いた。

社会に出た頃

 司法試験に合格した後、当時は2年間の司法修習期間があり、準公務員として横浜地方裁判所に身を置いた。既に横浜港は船舶中心の時代が終わり、空の時代に移っていたが、戦前期の繁栄の名残りは街のいたる
所に残っていた。
 何とか修習修了試験を終え、弁護士登録をして、都心にある国際法律事務所に職を得た私は20代半ばになっていた。大企業の顧客を中心にした企業法務や特許権の出願や侵害事件を多く扱う職場であった。若造ながら個室をいただき、担当秘書もつけてくれた。
 ネームパートナーの一人だった原増司氏は、裁判官時代の戦後に米欧に派遣され、日本の特許法改正案を起案した人で、自ら東京高等裁判所の知的財産権部の裁判長として戦後の日本における特許侵害訴訟の裁判実務をつくりあげていった人である。
 ある時、若い私を原先生が昼食に誘ってくれた。同じ大手町の古いビル内にあった「永楽倶楽部」という社交クラブで食事をした。その倶楽部の古めかしい雰囲気は気品とくつろぎが一体となったものであった。私好みの印象が記憶として残った。

【1】【2】【次ージ】

小島 秀樹/こじま ひでき
1947年生まれ。早稲田大学法学部卒、1970年司法試験合格。
1973年に弁護士登録。フルプライト留学選考に合格。1978年米国サザンメソジスト大学ロースクール修士、1979年米国ジョージタウン大学ロースクール比較法修士。
1981年ニューヨーク州弁護士登録。東京の湯浅・原法律特許事務所、ニューヨークのリード・アンド・プリースト法律事務所、旧西独デュッセルドルフのホイキング・キューン・ヘアホルト法律事務所、各勤務を経て、1984年小島国際法律事務所を設立。


※この記事は「月刊マクロビオティック」で連載しています。

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